覚悟の決断
- osamu N

- 4 days ago
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3月、私は大きな手放しをした。
2013年に賞をいただき、長年私の代名詞だった「野菜ソムリエ」の冠を捨てる。
愛着も誇りもあった。
けれど、その看板に安住していては、15年前の自分を超えることはできない。
リブランディング
それは、自分自身に「未完成」を突きつける儀式だった。

辿り着いたのは、学生時に研究した世阿弥の「幽玄」だった。
目に見える派手さではなく、余白の中に宿る深い美しさ。
和歌山の豊かな食材、その生命力をどう引き出すか。
言葉で飾る「野菜ソムリエ」としての説明を捨て、一皿の佇まいだけで客の魂を揺さぶる。
そんな表現者としての道を歩み始めた。

かつての私は、何かを足すことで自分を証明しようとしていた。 今は違う。不純物を削ぎ落とし、素材が持つ「生命力」をむき出しにする引き算の美学。
それは、平和酒造さんの酒作りとも共通する精神だ。余計なものを引いた先に残る一滴と一皿の共鳴。 それこそが、私が追い求める究極の姿だった。

野菜も、魚も、生きていた。その命の躍動を消さずに、皿の上に定着させる。
15年前は「知識」で料理を作っていた。
今は「感覚」を研ぎ澄ませて、食材と対話する。
野菜ソムリエという知識の鎧を脱ぎ捨てたことで、皮肉にも素材の本当の凄みが、より鮮明に、より深く見えるようになった。

飲食店は、ただ腹を満たす場所ではない。
店主の思想と、和歌山の風土、お客様の期待が交差する表現の場であるべきだ。
野菜ソムリエから一人の表現者へ。
この脱皮は、15年という月日が必要とした通過儀礼だったのかもしれない。
自分自身を更新し続けることでしか、お客様を熱狂させることはできない。

メジャーな看板を掲げていれば安全だった。 でも、守りに入った時点で15年前の私に負ける。 引き算の果てに、日本酒を合わせた時、どんな化学反応が起きるのか。
周囲の「分かりやすさ」に魂を売るつもりはない。
未知の領域へ踏み出す高揚感で、今は胸が震えている。

本日、わかやまジビエ振興協議会の活動が再開される。
そこでも私は「引き算」と「共鳴」を伝えていく。
野菜家さいは、ただのスペイン料理店ではない。
世阿弥の教えを胸に、一瞬の美しさを提供する舞台だ。
15年前の敗北を塗り替えるための、鋭く、静かな覚悟。もう店の中だけで収まる話しじゃない。


